公開レッスン聴講
公開レッスンを常に聴講し触れておくことは、自分のレッスンを改善し役立てる為のよい勉強になります。
先日は名ピアニストで名教師の赤松林太郎氏のレッスン聴講、10時~20時、まるまる一日です。
今回はコンペ本選に向けてポイントを絞ってのレッスン、受講生は小1~高3の22名、レッスン時間は一人20分。
果たしてそんな短時間で何ができるのか。
と思ったのもつかの間、
目の前でその子の演奏がみるみる変わる…!
弾き始めの硬い表情から一転アーティストの顔に変わる…!
驚きの連続でした!
もちろん能力の高い子たちなので、言われた事をその場でパッとできちゃう、てのはありますが…
でもでも、それはまるでマジック!
演奏もテクニックも論理があり科学ですから、マジックはあり得ないのだけれど、あたかもマジックにかかったかのように本当にみるみる変わるのです…!
赤松先生って、なんて褒め上手で「気分」を乗らせる事が上手いの…!(「ココロの感動」という名の叫び)
指導者として生徒の精神面を支え強化する事がどんなに大事かを痛感しました。
赤松氏は、
「同じ作品でも演奏者によってアプローチは異なり、楽譜から抽出されるイマジネーションは様々。だからこそ再現芸術は立派な芸術行動なのであり、不朽のものとして今日まで継がれているのです。私たちはその多様性を認めるところから始めなければなりません。短所は決して欠点ではなく、新たな魅力へとつながるエッセンスになり得るからです。それを表現力として活かしてあげられるかどうかは、専ら指導者の導きによります。」
とおっしゃるように受講生達みんな、師のご指導により自信と幸せを与えられ嬉しそうな表情になるのです!
私も今度のレッスンからは、どんな状況であれ、何らかの自信と幸せを与えてフィニッシュしようと決意しました。
ちなみに、毎年夏に行われるモスクワ音楽院の教師陣によるロシアンスクールでの公開レッスンは真逆です。
受講生はピアニストの卵たちや既に活動されている若手ピアニスト、音大の講師さん達ですが、あそこまで酷く罵られ、自信をズタボロに砕かれたらたまったもんじゃありません。
でもね、それが「音楽」の厳しい道。「音楽」という美しいものをクリエイトし、聴衆者の心に届けるには、時にはどん底から這い上がる事も大事なのです。天狗になってしまっては最後。人間のあらゆる感情を音として表現することは、より多くの感情体験があった方がいいのです。
いかなる状況からでも立ち上がり打ち勝っていくかの世界でもある。過去の音楽家達もみんな苦悩との隣り合わせ、闘っていました。
そんな点ではスポーツの世界と同じです。
私も師事のY氏からはレッスンで毎回のように罵られズタボロにされてます(笑)
もう慣れてきたけど(笑)
最近では、罵られ最中に自ら笑うようになるまでにメンタル成長しました!(笑)
そうでもしてメンタルコントロールしないと、メゲ倒されたら、ハイおしまい!
でも数回に一度の大泣きは健在だけど(笑)
講座受講の掟
作曲家 西尾氏の10年に及んだアナリーゼ講座が昨年(2017年)12月をもって終了し、それに代わる論理的解説でナットクいくピアニストA先生のアナリーゼ講座が今となっては定番となりました。
アナリーゼ講座の内容を悠々と書き込めるよう、過去学生時代の無意味な書き込みは心置きなく消します!(因みに消すだけでも一作業、笑)
下手くそだった過去に未練はなし!
しかもね…
17歳で発症したPTSDの15年以上にも及ぶ闇、それに覆い被さるように発症した右手薬指のF.ジストニアで10年以上の地獄…(笑)
計25年以上のマイナス人生!(笑)
『(笑)』って今だから書けるけど(^^)、
こんな黒歴史だから、過去は既に捨て去っております!
書き込み等の残骸はいろいろ残ってるけどね…
今の私には、未来の夢と希望への前進しか脳裏にないよ♪
リサイタルの感動
2018年5月 Y氏リサイタル
東京文化会館
プログラム
第1部:ラフマニノフ/コレルリの主題による変奏曲
第2部:J.S.バッハ/ゴルトベルク変奏曲
この日のY氏は、ソロリサイタルにも関わらず珍しくブラックのシャツとパンツというシンプル&ラフな出で立ち…(伴奏や室内楽ではよくお見かけするが…)
通常のスーツや燕尾服ではない。
心境的な何かあるに違いない、と感じた。
舞台袖から静かに、はにかみながら、まるで空気のごとく現れた。
いつもに比べ、柔らかい雰囲気でとてもナチュラル…!
椅子に座ったと思いきや、いきなり両手を大きく広げ、ピアノ幅の両端をつかみ、前にかがみ込む…何か祈るような、あるいはピアノと共に媒介を…的な姿に見えた。
第1部、ラフマニノフ。
そう、この音この音!
いつも惚れこんでいる透明感あるクリアな音…!先生の持ち音だ。
ここ3週間ほど先生のご多忙によりレッスンがない私にとって、この音を聴くと家路に着いたかような錯覚と落ち着きを覚える(笑)
もはや私は、定期的に先生の生音を聴かないとダメなくらい惚れすぎたこの音に中毒化している。
先生の演奏の何がスゴいって、音~色彩感~和声感~表現に至るまで全てなんだけど、それらを兼ね備えつつポリフォニック(多声音楽)であるところだ。そのうえに情感がこもってる…!
そしてその作品の作曲家の「らしさ」。
ラフマが素晴らし過ぎたのはいうまでもない。
第2部、ゴルトベルク。
かつてこんなに感動的なゴルトベルクはあっただろうか…!
J.S.バッハがこの世に2段鍵盤のチェンバロの為に書いたこのゴルトベルクを、グレン・グールドが現代のピアノ1段鍵盤で弾いてみせてセンセーショナルを巻き起こしたのは有名なところだが、私もゴルトベルクといえばまぎれもなくこのグールドのCDを聴いていた。
芸術は比較ではないけれど、先生のはグールドの100倍スゴかった!!
人間の全ての喜怒哀楽と神の慈悲を見いだし、これはもうマタイ受難曲の世界!と感じたのは初めてだ。
しかもY氏は靴を脱いでの演奏!
なぜ?
一切を排除し、媒介となって一体化したい、との思いからではないか?
神聖なるものが息づいていた。
…感動のあまり私は涙を押し殺しつつ聴いていたが、とうとう最後の主題回帰への突入の瞬間、こらえきれない涙があふれ出し嗚咽が出してしまった。
心打たれた演奏には感謝しかなかった。
そこに僅かでも身をおけた自分は幸せだった…
これを書いている今も、あの感動が甦り胸が熱くなる…
♪♪♪♪♪
・・・からの2週間たった昨日のレッスンで、靴を脱いだ理由をきいてみた。
「ん?余計な音を出したくなかったから」
「なあ~んだ…それだけ?」
「そう」
考えすぎだった私…(笑)
音楽と感受性
なんていうタイトル、クソまじめなレポートみたい(笑)
感受性が、音楽には大事だなと改めて感じ、ちょっと徒然なるままに書いてみようと思います。
私の子供時代、
「なにこのステキな音~!」
「わ!なんか胸がキュンとする!」
「急に寂しい音…切ないな。」
「心が苦しくなるこの響き…!音楽は私の心をわかってくれてる!」
当時は知識など皆無であったから、それらの音が今になって音楽上で固有名詞がつくほど意味のある重要な音である事を知った。
いわゆる後付け。でもこれ大事で、知識と先入観で聴いてもそれを感じられる感性や感受性がなかったら意味ない。表現も皆無。
例えば、最もデリケートな音程である「半音」、「減七」と呼ばれる心に刺さる和音、悲劇の象徴「ナポリの六度」…挙げだしたらキリがないけれど、これらを感じる事ができて初めて表現に至る。
思えば私が子供時代に、その名こそ知らずとも感動を覚えた記憶は数知れず…
教育番組の理科の実験のBGMが未来を感じる不思議な和音(増3和音)でわくわくしたり、
テレビアニメ『アタックナンバーワン』の、根性物(笑)を見ながら流れてくるBGMの短調の響きと共に、困難に立ち向かう主人公から勇気をもらったり、
のちにはベートーヴェン月光ソナタ1楽章に、そのアタックナンバーワンとの音の作り方に共通点を見いだし感動、初めて聴いた曲なのに懐かしんだり…
今、私にとっての練習は、とても困難を極めるものであり、棘の道です。
それでも理想形を諦めず継続できるのも、過去の感受性を伴う音楽体験があったからだと思うのです。
現時点での自分がどんなにできなくても、この感受性が成長を促してくれている気がします。
皆さまにも是非、音楽表現の源「感受性」を大切にし、育んでいけたらいいですね!
ピアノの上達もそこにありき…!なのです。
音楽に一生を捧げると決めた理由
私が音楽に一生を捧げると決めた理由について書こうと思います。
・私のような悲劇や被害者を産むことなく、努力した分はピアニストのように弾けるようになる正しい奏法の継承。
・弾けない人を弾けるようにようにする。
これが私の使命だと思っています。
その為に私は生まれてきた気がするのです。
その為に私はフォーカル・ジストニアやへバーデン結節といった障害と克服も与えられたと思えてなりません。
そうすると、今まで生きてきた苦難苦悩すべての点が、線となり、綺麗につじつまが合う…!
これぞまさに神様から与えられた使命です。
ということは、必ず果たせるようになっているはず。
確かに果たす為の準備が全て揃っているではあ~りませんか!
あとは努力と諦めない意志だけ♪
過去をさかのぼるが、私は音大卒業後やっと
「練習せねばならない」の呪縛から解き放たれ、本当の意味で練習に励んでいた。
極度のあがり症も克服しようと、リサイタルを開催したりもした。
しかしそんな練習の最中に、
指の感覚に違和感…
右手薬指の異変…
恐ろしいフォーカル・ジストニアだった。
シューマンを自殺にまで追い込んだ恐ろしい病魔…フォーカル・ジストニア…
完治率はたったの5.6%、脳の病気なのです。
薬指を弾こうとするとカサッとあらぬ方向に指が屈曲し、意志でのコントロールも不能。
弾けない…
弾けば弾くほどそれをかばう他の手指や掌の筋肉バランス等、全てを失っていきました。
月日と共に悪化し挙げ句の果てには、ド素人の手のごとく右手は弾けなくなっていき…
地獄…
生きている心地がしない日々…
この世を去ってしまおうかとも…
今はジストニアを専門とする有望な研究者がいて頼りになりますが、15年前の当時、ジストニアはまだまだ未解明分野で絶望的だったのです。
しかし結論は、なんと春は訪れました🌸
私は5.6%の完治率のひとりに!\(^o^)/
奇跡です!
この完治という奇跡も、使命を果たす為の神様の計算です♪
でもそもそも、F.ジストニアもへバーデン結節も間違い奏法がタタってのこと。
努力してもピアニストように弾けないのは間違い奏法だったから。
完治後の復活リハビリ(練習)といっても、奏法を変えない限りは過度の練習によりジストニア再発の危険性が大。
私はついているピアニストY氏に相談してみた。
お互いの意見は合致。
そう、それは「基礎奏法のやり直し」です。
ちなみにY氏は日本一のテクニックを持つ実力派ピアニスト。演奏はいつも圧巻感動の渦。
以前から憧れを抱いていたピアニストです。クラシック界においても「難曲も簡単そうにラクそうにと弾いちゃう人」との言いわれ方でも有名です。
で、Y氏の発言…
「弾けるようにようになったら、誰にも出来ない仕事が出来るようになるのかもね…」
!!!
それ!まさにそれです!私も感じてた事!
だから、やっぱり使命なんだ…!
さて、いざ基礎奏法の蓋を開けてびっくり!
日本人の一般的な「常識」とされる奏法とのあまりの違いに驚愕たる思いからのスタートでした。
長年の弾き方を変えるというのは大変な困難を伴いますが、まだ見ぬその獲得のメリットは絶大だと確信はしていました。
ちなみにY氏、音大でも教鞭をとり若手ピアニストをも指導する実力者だが、基礎奏法を教えるのは今回の私が初めて(笑)
よって「教わるだけじゃ出来ないからね!自分で盗んだり研究しないと無理。」
確かに、一筋縄ではいかない棘の道…
この奏法で弾けるようになる為にどんな困難をも乗り越える覚悟はあるし、一生を捧げる決心もしている。
ただ…果たして一生のうちにできるのか?
しかも幼児のようにまっさらならまだしも、ン十年弾き続けて障害を患い、いらない癖までつけてしまったそれらを払拭し、新な奏法を身体に覚え込ませる事は並大抵ではない。
スポーツ選手が基本を変える為に死に物狂いで特訓を受けたり海外留学するのと同じ事。
ただどんなに困難でも私には全ての準備が整っているのです♪
環境、良いピアノ、家族の理解と協力、素晴らしい師…
あとは努力だけ(^^)
すでにこの奏法で指導できる程にはなったけれど、実力派ピアニストからみたらこのレベルはまだまだ…
崇高な音楽はまさに一生を捧げる価値があります。
来る日も来る日も一日何時間もピアノと向き合う日々。
昨日も、今日も、明日も…
私はぜったい諦めないよ♪